関東では春一番が吹いて、日本も春がやってきたようです。夜明けも早くなり東の空に日が登ってから、南アルプスに日が沈いくまでずいぶん長くなってきました。少しずつですが季節は変わっているんですね。
ただ、世界ではそう呑気なことを言っていられない状況が続いています。ご存知のようにロシアとウクライナの戦争が始まってしまいました。前回書いた時は戦争が起こらなければいいという気持ちでキーボードを叩いていましたが、現実に戦火が拡がることが残念でなりません。連日ニュースでウクライナのひどい状況が伝えられるたびに、どうしてこのようになってしまったのだろうと思うし、小さい子供の泣き顔や父親との別れに悲しむ顔に、同じ子供を持つ親として心が抉られるのです。子供が行儀悪くご飯を食べるので怒ったりもするんですが、テレビに流れるウクライナの目を背けたくなるような惨状がクロスオーバーされると、今自分の子供の躾がうまくいかないと思う苛立ちすらウクライナではもしかしたら感じられないのでは、と考えるとご飯をこぼしまくる子供の横顔を見ながら複雑な感情が喉から込み上げてきました。ただ、子供と一緒にご飯を食べて、お風呂に入って、歯を磨いて、ただ眠る、これって当たり前にやってきましたけど当たり前じゃなくなることだってあるんですよね。
戦争ではなくたって、災害もあれば、個人的な危機であったり病気であったり、この当たり前って実はほんの束の間のひと時かもしれない、考えてみれば当然なのかもしれませんが、画面の向こうと画面のこちらの温度差が激しすぎてどうしようもなくそう感じました。
ある日突然住んでいる場所が爆撃され、家族が引き離されて、もしかしたら自分も戦場に向かわなくてはならない、ウクライナではそれが現実に起きていて、そして、もしかしたらこれからもっとひどいことが起きるかもしれない、その不安とも向き合いつつ今目の前の危機を回避する、そんなこと自分はできるのか?この戦争は今までになく色々考えさせられました。
そして、現場で戦っているロシア兵の言葉もやはり私の心をざわつかせました。戦いたく無いけど戦わなくてはならない。お母さんに懺悔するかのように悩みを送る若者。言葉の通じるウクライナの人々から抗議されて困惑する若者。演習だと騙されて実戦に参加させられ、訳もわからず親戚かもしれない人々に弾を打ち込まなければならない若者。軍と良心に板挟みに合うのは「パパ、ママ」と言っている若者であり、そして、人知れず血を流していくのも若者です。戦っている彼らに大義名分など少しも無いでしょう。ただ命令されているだけです。
しかし、戦争が長引けば彼らにも戦う理由が出来てしまいます。戦友、仲間を殺されたり、自分も被害を受ければ、十分戦う理由は出来るのですから。当然攻め込まれているウクライナ人はなおさらです。そうなれば、復讐が復讐を生み出す負の無限ループの完成です。兄弟のように思っていた国同士が今後消えることのない怨念を抱き続けるのです。それも、国民一人一人のレベルで。イスラエルとパレスチナ同様もはや修復など不可能になるでしょう。それは何も良いことなど生み出さない。
戦争を始めるのは人です。だったら終わらせるのも人ですよ。天災ではなく人災であるならば、人の力でどうにかなるものです。私は全くの無力ですが、どうか力ある人になるべく早く溝が深まらないうちに正常な判断をしてもらえるようにと願うばかりです。
NO MORE WAR!
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